1920年代
クラシック・ブルース 黒人シンガーによる最初のブルース・レコードは、メイミー・スミスが1920年に録音した「クレイジー・ブルース」で、彼女の成功によって、マ・レイニー、ベッシー・スミス等のブルースを歌う黒人女性シンガーたちのための道が開かれた。これらのクラシック・ブルースの歌手たちがジャズ・バンドをバックに規格化されたブルースをたくさんレコーディングしたが、南部のカントリー・ブルースの商業的可能性が認識されるのはずっとあとになってからである。レコーディングするには粗野でいかがわしすぎるとされていたのだ。 田舎のブルース ブラインド・レモン・ジェファスン、チャーリー・パットンのような、自分の伴奏でうたう“本物の”ダウンホーム・ブルースの録音がはじめて本格的におこなわれた期間は、1926年から1930年にかけてである。多くの南部のブルースマンは、レコードの時間的制約に直面しながらも、本来の田舎のブルースの特色を保ち録音することができた。ブラインド・レモン・ジェファスンのレコードはよく売れ、彼は車とお抱え運転手を持ち、都市や南部を巡業して回った。ブルースの歴史には、盲目の偉人が彼だけでなく、たくさんいる。南部の田舎では、盲目の黒人は音楽の道に頼る以外、生計の立てようがなかったともいわれる。ジェファスンは、テキサス・ブルースの流麗なスタイルを作り上げた。親指でベース・ラインを弾きながら、しばしばリズムを断ち切り、ヴォーカルに応える即興のギター・フレーズをすばやくいれた。 デルタ・ブルース しかし大量の有力なブルースマンを生み出したという意味で、ブルースの本家といえば、テキサス州ではなく、やはりミシシッピ・デルタだ。今でも広大で平らで肥沃なこのデルタ地帯には、かつて数多くのプランテーションが作られ、黒人労働者が誘い込まれ、小作制(新手の奴隷制)が生まれた。農園主から金を借りる代わりに生産物の半分を提出。買い物も、農園主が値段をつけたプランテーションの店を利用するしかない。黒人は農園に縛り付けられ、法律で白人からは分離された。デルタ・ブルースは、その閉鎖的ブラック・コミュニティの中で生まれ、通信販売のギターによって、家のポーチや週末のパーティでの楽しみとしてその形を整えていったのだ。 打楽器のようにギターの弦を叩き、しゃがれ声で歌ったチャーリー・パットン、スライド・ギターの達人で、天性のエモーショナルな声を持ったサン・ハウス、高度なテクニックを用いたギターを聴かせ、ファルセットで不気味に歌ったスキップ・ジェイムス、シンコペーションを多用したフィンガー・スタイリストのミシシッピー・ジョン・ハートなど、初期のブルース・レコーディングに最も多くのブルースマンを提供したのが、ミシシッピ・デルタだった。といってもテキサスとミシシッピだけでブルースが栄えたわけではない。メンフィスには、ロバート・ウィルキンス、ファリー・ルイスなどがいた。ジョージア州や南北カロライナ州では、オルタネイト・ベースを使ったラグタイム的ブルースが発達。ブラインド・ブレイク、12弦ギターの名手バーベキュー・ボブ、ブラインド・ウィリー・マクテル等、彼らの多くはデルタの連中とはまったく違った明るいダンス音楽のようなサウンドをつくり出した。 ジャグ・バンド 20年代〜30年代には、形式張らない器楽演奏グループであるジャグ・バンドもさかんで、メンフィス・ジャグ・バンドなどが活躍した。ジャグ・バンドの“ジャグ”とは、陶器製の瓶のことである。空気を吹き入れ、チューバのような音を出すことができた。ほかにウォッシュボード(洗濯板)、カズー、ハーモニカ、ヴァイオリン、バンジョーといった楽器をフィーチャーし、ブルース、ラグタイムを取り混ぜた騒がしい音楽を演奏した。ジャグ・バンドは次第により洗練されたジャズなどにその地位を奪われていったが、ジャグ・バンドのスピリットは、その後の様々なブルースマンのレパートリーに伝承されている。 [前の年代へ|次の年代へ] |
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