クラークスデイル

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アイク・ターナージョン・リー・フッカーの生まれた町、クラークスデイルは、昔から多くのブルースマンの活動の拠点だった。この小さな町には伝説がたくさん詰まっている。W.C.ハンディが1903年に住んでいたのがクラークスデイルであり、彼はクラークスデイルに帰る道すがら、15マイルほど離れたところにあるタトワイラーの鉄道の駅で、ブルースを発見した。マディ・ウォーターズはクラークスデイルの外れにあるストヴォール・プランテーション内の自分の小屋で初のレコーディングをしている。そして、「ブルースの女帝」ベッシー・スミスが命を落としたのも、ここクラークスデイルなのだ。

リバーサイド・ホテル(G・T・トーマス病院)

リバーサイド・ホテル

ミシシッピ州クラークスデイルにあるリバーサイド・ホテル

1937年9月26日の夜明け前、「ブルースの女帝」ベッシー・スミスは、愛用の古いパッカードでメンフィスを出ていた。運転手は、愛人でもあったリチャード・モーガンで、ハイウェイ61号線をクラークスデイルにむかっていた。

クラークスデイルの16マイルほど北を通っていたとき、スミスの車は停まっていたトラックに衝突した。モーガンは怪我をしなかったが、スミスは腕にひどい傷をうけ、大量の血を流した。

トラックの運転手は、現場から走り去って行った。モーガンは合図をして通りかかった車を止めた。車には、思いもかけず、ヘンリー・ブロートンという友人とともに魚釣りに行くところだった医師のヒュー・スミスが乗っていた。スミスとブロートンはベッシー・スミスを路肩に横たえ、医師が手当てしている間に、ブロートンは救急車を呼ぶべく近くの家に歩いた。

ブロートンが戻ってきたとき、今度は別の車が高速で近づいてきて、ヒュー・スミスの車につっこんだ。その車には白人の男女が乗っていた。医師が負傷した白人の男女を診察しているうちに、2台の救急車(1台は、トラックの運転手がクラークスデイルに行って呼んだようだ)が到着した。3人の患者全員がクラークスデイルに搬送された。ベッシー・スミスは黒人病院のG・T・トーマス病院に運ばれ、右腕を切断する手術も受けたが、ショックと失血のために午前11時30分、死亡した。享年43歳だった。

1か月後、ジョン・ハモンドが『ダウン・ビート』誌に、彼女は「その肌の色を理由に治療を拒否され、手当てを待ちながら失血死した」と書いた。翌月になって同誌による訂正記事が掲載されても、最初の糾弾の方が世の中の人の興味をそそるものであり、広く流布された。白人の病院がベッシーの治療を拒んだという物語は、エドワード・オールビーが1959年に書き上げた戯曲『ベッシー・スミスの死』でさらに有名になった。

あとになってヒュー・スミスは、「1937年当時に、救急車の運転手が黒人を白人病院に連れて行くなんて、ありえない。」と語っている。いずれにせよ、クラークスデイルにある黒人用の病院と白人用の病院は1キロと離れていなかった。

G・T・トーマス病院は1940年に閉鎖され、数年後、リバーサイド・ホテルとなっている。この建物をホテルに生まれ変わらせたのは、現オーナーのフランク・ラット・ラットリフの母親Z・L・ヒルだ。アイク・ターナー、ロバート・ナイトホーク、そしてサニー・ボーイ・ウィリアムスンなどがのちにここに泊まった。

ベッシー・スミスが息を引き取った部屋

ベッシー・スミスが息を引き取った部屋